成人を迎えた人間で『いじめ』というものに接したことがない人間は一人もいないであろう。もし仮にいるのだとしら、それは幸運であろう。不幸かもしれんが。。。まぁ程度の差はあれど接したことはあると思う。
いじめに対する議論があると大抵、『いじめる方が悪い派』と『いじめられる方が悪い派』に二極化していく。
端的に私が最終的に出した結論を言ってしまうと
いじめる方が100%悪い。いじめられる方に原因がある。
である。
大体いじめられる方が悪いと言う奴らは、この”原因”と”悪い”ということを混同しているように思う。つまり見ている場所が違うのでそもそも議論として成立していないのである。
もっと詳細に書くならば
いじめる方が悪い派は、いじめの行為(物を盗る、隠す、無視をする、悪口を言うなど)を見ている。
いじめられる方が悪い派は、いじめの原因を見ている。
よって、俗に言ういじめの行為そのものを見るならば、いじめる方が悪いし、その原因があることを悪いと言うのであれば、いじめられる方が悪いとも言えよう。
ただ、このいじめの原因は、いじめられる側に責任がない(悪くない)場合が多いので、何にせよ私は”いじめられる方が悪い”という意見には大反対である。
この意見を唱える奴には、自分が車をぶつけられて、ここを車で走った自分が悪いんだ。なんて言えるのか?と問いてみたい。
ここで挙げる原因とは、人間というものがいじめる生き物だから、いじめられる要因を持っていることが原因だということだ。
それだったらいじめる方にも原因があるだろうという意見が出るだろうが、それに関しては私も同意だ。しかし、原因の大きさで比べた場合、いじめる側の原因>いじめられる側の原因になることはほぼないだろう。
諸君らが思い浮かべるTHEいじめではなくとも、人間ならばあるだろう?
あいつちんたらしていて、見ていてイライラする。臭い。ブサイク。
ちんたらしているというのは、その人から見た主観である。少し客観性がある言い方をするならば、その人の動きが周りと比べてゆっくりといったところか。そこでクエスチョンであるが、動きが遅いということは、罪か? その人は悪いのだろうか?
これを思わない人間が果たしているのか?
つまり、
いじめられる側を見て感じる不快感は、学校や家庭で教える、倫理観、道徳などでは抑えつけれないほど、強力だということだ。それに人をいじめる行為そのものの快感が拍車をかける。
考えてみれば、大人でもいじめがあるというのに、未熟な子どもが学校という一つの狭い所に押し込められれば、いじめが起きることは必然といえる。
もっと大きく歴史を見れば、白人の黒人に対する差別。それも本質的に見れば、この不快感が動機であろう。
書くのに疲れたので結論を書く。
いじめる方が100%悪いが、いじめられる方に悲しいかな原因の大部分がある。
先述にいじめられる方に”も”原因があると書かなかったのはこれが理由である。